「味」と「価格」は比例しないということ
私たちは「ただ食べたらいい」ということでは満足しません。私たちにとって「食事」とは「楽しむ」べきものであり、食事の時間は団欒の時間でもあり、またリラックスするための時間でもあります。そのな食事は「美味しい」ということがもっとも大切なのです。美味しい料理を家族で楽しむことで、その日一日の疲れが癒せたり、その後の活動のためのエネルギーになったりするものなのです。そのような大切な食事のメインはやはり「料理」です。私たちが実際に口にする料理がもっとも大切なのです。そしてその「料理」はさまざまな食材から「作る」ことが必要です。料理を作るためにはある程度の「技術」が必要で、その技術を突き詰めると「職業」として成立するのです。それは自分のために料理を作るだけではなく、家族のためだけに料理を作るだけではなく、さまざまな人に「食べてもらおう」という「専門職」として成立させるだけの事柄でもあるのです。
料理を作るということは、人の「大切な食事の時間を彩る」ということでもあります。「食事」は決して避けることの出来ない、生きるために必要な行為です。人生の中でもっもとも重要な生活の中の場面であるともいえるのです。その食事は「美味しい」ということが何よりであり、そのためにはある程度の専門的な技術が必要なこともあるのです。そして、突き詰めた技術はさまざまな人に愛されることになり、人々はその料理、その「仕事」に対して「対価」を支払うことも厭わないのです。そのようにして「料理人」という職業が成り立っているのです。
ですが、この「専門的な料理人」の料理だけが美味しいというわけではないのです。家庭でいつも作られているその家の「味」というものもあります。「プロの料理人」ではないけれども、毎日家族を楽しませている料理がそれぞれの家庭にあるのです。それらの料理は人を楽しませると共に癒すものでもあります。料理店のように整ったものではなくても、その家庭の好みのすみずみまでわかりきった料理は、「美味しい」ものなのです。そして、そのようなその家庭に根ざした料理には「値段」は付けられないものなのです。「プライスレス」とはよくいったものですが、時と場合によっては専門店の高級料理よりも、その家庭の素朴な味が人を癒すことがあるのではないでしょうか。
美味しい料理は高い料金を支払わなければいけないということはないのです。その時、その人にとって「欲しい」と感じている味は違うものなのです。その味は高い、安いでは語り尽くせるものではなく、その人にとってその時にベストなものはいくらお金をかけても手に入れられるものではないのです。しいくら高級な料理店の料理であっても、「それは欲しくない」と感じた場合はその人にとっては「価値のない」料理です。その料理が絶対的に価値がないわけではなく、その時、その人にとっては無価値であるというわけです。料理は高級であればいいというわけではありません。その時、その人によって「食べたい」ものは違うのです。その時に適した料理を提供できることが、その人にとって「最高の料理人」であるといえるのではないでしょうか。ただの「美食」だけではいけないのです。